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映画・本の感想や日常のことを書いていきたいです。

やります

世の常として、人はラクな方に流されてしまうらしい。勿論それ自体が全て悪いというのではなくて、だるい時に出前を頼んだり足が棒になった時にエスカレーターに乗ったりできなくなるのはとても困る。しかしそういったものは、ラクになろうという意志をもって能動的に使いこなすのでないと逆に飲み込まれてしまいかねない。

 

その最たるものはスマホだ。スマホで生産的なことをしている人もいるにはいるのだろうが、大半はSNSやソシャゲで時間を溶かしているに違いない。このソシャゲ、そしてSNSラクちんの一種の到達点だ。ベッドに寝っ転がり、攻略サイトを見ながら何も考えずに効率よく周回して、ガチャでいいキャラを引けばスクショをとる。また、「いいね」のボタンひとつで気持ちを表明し、定型句の組み合わせによって「尊さ」を共有しあう。このように書くと、といっても悪意のこもったような書き方だから当然なのだが、ひどくつまらなくて無意味なことをしているように思える。しかし、実際その渦中にいるとだらけきった快感に包まれるというのも自分にとっては事実だった。ブルーライトの覚醒力のためかは分からないが、何をする気も起きない、それこそ歯を磨いてシャワーを浴びるのも億劫で仕方がないというときでも、スマホをポチポチすることだけは出来る。それはまるで、眠りに落ちることのできない意識への慰めのようであった。つまるところ、スマホを通じて自分はラクなことしか出来ない、しようと思えない状態になってしまったのだ。

 

こんな風になると、もはや機械と変わりがない。それはスマホと主従が入れ替わってしまったということでもあるけれど、それ以上に生命力が失われていることを指している。生きる意味なんていうと大仰だしここでついでのように書くことではないけれど、「生きる」というのは動植物にとっては存在を維持し続けることであるし、もし人間が特別な動物であるなら、人間にとっての「生きる」はきっと動植物のそれに存在表明をする、というのを足したものになるのだろう。まだ心のどこかでは、親指の向きによって、あるいは星の数によって存在表明を済ませたいと思っているけれど、そんなすぐに掻き消えるような、無気力な態度で世の中に臨むのでは生きているなんて言えない。

 

そんなわけで、体はちょっと重たいけれど、ブログやってみます。