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映画・本の感想や日常のことを書いていきたいです。

『パラサイト 半地下の家族』感想 拭い難き「におい」

はじめに

ブログを始めようと思ったのは、『パラサイト』の感想を書きたいと考えたからだ。感想を書きたいと思うような映画は今までにいくつかあったが、その時はまだ書くに至るだけのエネルギーが足りていなかった。それに自分がやらなくても誰かがいい感想なり考察なりを書いてくれるんだし、わざわざ頑張ろうという気が起らなかった。だけれど、そんな無気力なんじゃいけないとこの頃思うようになって訓練の一環としてブログを始めることにした。というわけで今のところは筋トレの脳版?みたいなつもりで作品感想等書いていこうと考えているが、公開コンテンツである以上コメントなりリアクションなりを貰えたらうれしい(といっても当分はネットの海に溺れてしまうのだろう)。

 

さて、この『パラサイト』を見たのは2~3週間前のアカデミー賞発表直後のことになる。ホントならすぐにでも記事を書きたかったのだが、ちょこっと忙しかったのと物事を先延ばしにしてしまいがちなHDMIに似ているアレのせいでなかなか手を付けられずにいた。当然ながらその間にいくつもの感想・考察記事が世に出ているわけで出遅れ感・今更感が否めないが、「自分が書く意味ある?」という気持ちにならないようあまりそういったものには目を通していない。なので二番煎じな部分が含まれるかもしれないが、ご容赦願いたい。

感想

この作品の構成は平たく言えば前半がギャグパートで後半がシリアスパートとなっている。

 

前半は『カメラを止めるな!』の後半を彷彿とさせるような内容で、登場人物が皆真面目というかある種の真剣さを持っているからこそ光る面白さが楽しかった。実際、劇場ではオバサマ方のホホホという笑い声が絶えなかったのを記憶している。

 

ギャグパートはつかみから秀逸で、IT社長令嬢JKの初回授業でいきなり手首を掴みだしたときには思わず吹き出しそうになった。そりゃ主人公友の「お前は大学のケダモノ(あってたっけ?)と違って信用できる」というセリフがフラグビンビンだとしても、いきなりのボディタッチには意表を突かれた。自分が男子校的環境で培養されてきたせいであのシーンは刺激が強すぎたのかもしれないが、それにしてもである。

 

あんまりネタバレや要約みたいなことをしてもしょうがないので、前半でいい味を出していた登場人物を挙げようと思う。まず、パラサイトサイドでは父と妹が天性の詐欺師とでも言うべき才覚を遺憾なく発揮していたのが印象的だった。劇中で誰かがこの二人は声がいいと言っていたがまさしくその通りで、全てを知っている観客の我々の目線からみれば胡散臭いことこの上ないのだけれど、絶妙な抑揚の効いたさも真剣そうなトーンは説得力を超えて何かを信じさせる迫力に満ちたものであったと感じた。そしてこの詐欺師たちに対応するカモ役の奥様もいいキャラをしていた。ヤングアンドシンプルと形容されるこの奥様は言うなれば水素水を有難がっているようなタイプの人間で、彼女にあることないこと吹き込んで着々とパラサイトを進めていく様は愉快だった。このように騙されやすい性格をしている彼女であるが、一方で無邪気さや純粋さといった善性の象徴であるようにも思えた。

 

さて、後半である。前半を経て見事に家族全員が寄生を果たした訳だが、彼らには未来がない。未来の終わりは「におい」の違いを勘付かれそうになるだとか、あるいは主人公が令嬢JKと結婚したらどうしようかと皮算用するといったシーンで仄めかされるが、いずれにせよ彼らの破局は避けがたいものであるのは間違いない。遠くない未来に崩れ去ってしまう束の間の幸せがこれからどうなっていくんだろう、そう思った矢先にもうひとつのパラサイトの存在が明らかになり物語は急激に加速していく。漠然とした未来への不安が、今日や明日の危機へと姿を豹変させる。このギアチェンジが見事なもので、ここからあれよあれよと話が進んで衝撃のラストを迎えるというのはエンターテインメントとして抜群であると感じた。

 

また、メッセージ性という意味でも後半の構成は優れていたように思えた。「におい」というのが本作の一つのキーワードであるが、同じ「におい」を持つもの同士、そして異なる「におい」を持つもの同士の葛藤なり衝突なりを通じて、「におい」とは何か、「におい」の違いは何から生まれどう影響するのかといった問いを考えさせられる作りになっていたように感じられた。

考察

本作は格差批判をしているのか?

結論から言えば格差批判が含まれていなくもない、というのが自分の見解だ。ただし、それは単なる金持ち批判というのではなく、むしろ格差を生み出す構造や社会制度に対して向けられているのではないかと思う。

 

冒頭であまり感想を読まなかったと言いつついくつかはちらりと流しで覗いたのだが、その中に本作は富裕層ムカつく!的格差批判を見事に描いた云々というのがいくつか見受けられ、自分は違和感を覚えた。自分にとっては本作が初めて見るポンジュノ監督作品であるので、『パラサイト』に至る軌跡を知らないが故の違和感であるかもしれないが、少なくとも本作を見る限りでは金持ちのIT社長一家は悪者であるようには思えず、だからこそ一種の勧善懲悪的な描かれ方をしているようには見えなかったのである。

 

『パラサイト』と並んでこの頃話題になっている格差を題材にした作品といえば皆さんご存じ『ジョーカー』である。この『ジョーカー』では、富裕層あるいはエスタブリッシュメントの欺瞞や無知が描かれており、実際TVショーの司会のマレー・フランクリンやトーマス・ウェインがいけすかない連中だからこそラストの「報いを受けろクソ野郎!!」というセリフで我々はスカッとアメリカするのである。一方、『パラサイト』の社長一家はどうだろうか。彼らには若干のいやらしさや趣味の悪さが垣間見える部分があったかもしれないが、それは人間誰しもが持ち合わせているいくつかの欠点という範疇に収まるものであって、基本的には善人あるいは立派なしっかりした人たちとして描かれている。これとは対照的に主人公一家はタイトル通りの「寄生虫」として、嫌悪感を催す存在として描かれており、ジョーカーとは全く異なる存在となっている。ジョーカーは大悪党であると同時に周囲から義賊的な英雄性を投影されていたのに対し、この半地下の家族は哀れなまでの取るに足りない卑しさでもって描かれていたのだ。大雨で家が流されたシーンは、特に象徴的だ。

 

三者視点だけではなく、半地下の家族からにとっても社長一家はいい人たちであったに違いない。というかあんなガバガバでお金をいっぱいくれる存在がありがたくない訳がない。むしろ、自分たちはあんな風になれそうもないというような発言もあり(確か父?)彼らをリスペクトすると共に引け目を感じていたのだ。

 

心の汚い金持ちと清い貧者というのは古くから受け入れられてきた図式であるが、どうやら現実はそうでないらしい、というのが本作の出発点だ。考えてみれば簡単なことで、貧すれば鈍するというやつだ。作中で地下鉄のにおいのくだりがあったが、新幹線よりも地下鉄の方がイヤな奴が多いというのは皆さんも納得するところだろう。ハロウィンの渋谷に集う連中の一部はろくでもないし、心が真っ直ぐな不良は例外中の例外だ。

 

金持ちを恨むというのも筋違いだ。それは彼らが加害者ではないからだ。『ジョーカー』の場合は金持ち/既得権益側に政治的権力があったため加害者たりえたが、本作の新興IT企業の社長には社会を動かすほどの力はなく(当然会社は動かせるが)、言ってしまえば金を稼ぐことしかできないのである。それにミクロなレベルで言えば、社長一家は半地下の家族をおおむね信用して恩恵を与えている。

 

そして裕福で真っ当に育った人たちが貧して鈍した人たちに違和感や嫌悪感を持つことに対しては、様々な意見があろうが自分は仕方がないんじゃないかと思う。つまり、金持ちとかそういう理由だけで聖人であることを要求されるのは酷ではないかと思うのだ。ちょっと話が逸れるが雨で家が流された後に社長の奥様がキャンプつぶれて最悪みたいなことを言って地雷を踏みぬくというシーンがあって、これを奥様の無理解として批判する人もいるようだが、それはちょっと過敏な反応なんじゃないかと思うのだ。こんな話もできないんじゃコミュニケーションはままならない。むしろ上等な身分を装っていながら勝手に逆ギレしたという見方もできるが、半地下の身分を隠さないといけないということに貧富の差の根っこがあるのかもしれない。でも、それはそれとして誰かの行いを批判する前に、例えば「自分の子供の家庭教師が半地下の住人でも構いませんか?」と自問することは必要なのではないかと思う。

 

「におい」というのが本作のキーワードだが、これは人間性の違いを端的に表したものだと解釈している。童話のように、におうのが金持ちであったら救いはあった(勿論そういう例も多少はあるのだろう)。しかし現実には、金持ちほど真っ当な人間性を備える傾向があって、貧乏人には「におい」がまとわりつく。金持ちはこの「におい」を遠ざけたいと思うが、彼らは貧乏人に恨まれるほどの存在ではない。この哀しい現実を、『パラサイト』は描いているのではないだろうか。

 

それで、もし『パラサイト』から格差の問題を考えるとすればーー自分としては格差云々というより人間の悲哀がメインな感じがしたわけだがーー、格差が個人やその集団による産物であると考えるのではなく社会によって生み出されていることを、人を恨めば済む単純な話ではないことをはっきり認識する必要があるはずだ。このことは権力に関してであればいろいろ言及があって、例えば

「権力」というと、人々を強制的な力によって従えようとする個人的な権力を、私たちは思い浮かべる傾向があると思いますが、近代以降の社会にとって本当に必要なのは、そのような独裁的権力のみを考えるということではなく、普通の人々の「身体に」、非個人的ーー「非人称的に」--働きかける権力を考えることです。

石田英敬現代思想の教科書』ちくま学芸文庫、pp.151-152)

 だとか、自分の大好きな伊藤計劃氏の『ハーモニー』でも

「昔は王様がいた。王様をやっつけて、みんなはセカイを変えようとした。王様をやっつけたのは市民。要するにみんな。……今度はムカついたら政府をやっつければよかった」

 

「でもいまは違う。政府の後にできた生府社会には、やっつける人間は存在しない。……」

 

「……なぜって、みんなに力を細かく割って配りすぎた結果、何もできなくなってしまったから。生府を攻撃しよう、って言ったところで、私たちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩きつける国会議事堂もありゃしない」

なんて言われている。

現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)

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  • 作者:石田 英敬
  • 発売日: 2010/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:伊藤計劃
  • 発売日: 2014/08/08
  • メディア: 文庫
 

 

「におい」はどこからくるのか

時間が経ってしまったのでだいぶあやふやだが、「におい」というのがはじめて語られたのはボーイスカウトのインディアン君がこいつら同じにおいがするぜ!と言い出したあたりだったはずだ。それから洗剤を変えようかという話になるが、そこで「におい」というのは上っ面を変えるだけでは拭えないものであると、父によって半ば諦めのように語られる。また、社長は父の一線を越えないところが気に入っているとしつつも、「におい」だけは一線を越えていてそれは地下鉄に充満するそれに近いのだという。あとは、かなりあやふやだが元家政婦のおばさん夫婦にエンカウントした時にこいつらから同類のにおいがする的なことも言っていたような。まあこれに関しては説明が無くてもそうだよねと分かるだろう。

 

このあたりのシーンをヒントに「におい」とは何か考えると、まずそれが物理的なものではなく人間性や雰囲気といった類のものであることが分かる。これはブルデューのいうハビトゥスと非常に近いもので、ハビトゥスについては『現代思想の教科書』にも説明があるのだが、要するに出自や社会ステータスをそれとなく相手に伝えてしまうような無自覚な振る舞いのことだと思ってもらえばいい。このように我々は「わたしたち」と「あなたたち」の区別が出来ているわけだが、その違いの中でも半地下の人々が持つ「におい」とは何なのだろうか。

 

これを読み解く鍵になるのは、一線を越えるということ、そして家が流された後の避難先の体育館で元家政婦夫妻をどうするか考えるシーンだ。主人公は殺るしかないと考えるが、それを宥めるように父はノープランこそ肝要なのだと説く。無計画・無責任(合ってたっけ?)であれば失敗することはない、と。この自律の無さ、格率の欠如こそが「におい」の由来で、いつ人間としての一線を越えてもおかしくない状況に陥ってしまう元凶なのではないか、そう自分は考えた。

 

半地下の家族の目的は、生きることだ。生きるために、嘘をつき、文書を偽造した。それはまだいい(法的にアウトとか野暮なことはここでは言わない)。生きるために、運ちゃんと家政婦のおばさんを追い出した。これも、まだギリギリいい。追い出された彼らには、次の就職先を得て生き抜く力があるはずだからだ。しかし、生きるために家政婦夫妻を殺したというのは、一線を越えている。この一線というのは、直接手を下した時ではなくて、最初に慈悲を求められたときに高圧的な態度で脅しを掛けたその瞬間に踏み越えてしまっている。ここにおいて、半地下の二族のうちのどちらかあるいは両方の破滅は必然となり、そして何より半地下の人間の醜さ、「臭い」というのが一気に表出してくるのだ。少しでも相手より優位に立った時にとことん弱みに付け込むいやらしさ、逆に立場が悪くなった時に卑屈に情けを求める浅ましさ、それらが代わる代わる半地下の人々によって演じられていく。

 

人間を人間たらしめるものは何かというのは難しい問いだが、その一つの要素として自分を自分の法なり信念なりで律するというのが挙げられると思う。それを持たずに、行き当たりばったりで生きていくならば、やがて人間性は腐っていき、どうしようもない「におい」がこびりついてしまう。それが本作で描かれた一つの現実なのではないだろうか。

 

しかし、何も好き好んで行き当たりばったりでいるのではなくて、そこには格差が歴然と存在している。一方、彼らが醸し出す「におい」は耐え難いものであるのもまた事実で、しかもその「におい」の大元が特定の誰かにあるというわけではない。そのような困難な現代の状況を作品として昇華させたからこそ、本作は非英語で初のアカデミー賞受賞に値するのだろう。

おわりに

思ったよりたくさん書けて良かった。凶器としても使われたお守り石の意味とか、半地下の家族同士の関係、特に主人公から見た妹と父の違いなんかについても考えてみたいけれど、それはまたの機会にしようと思う。

 

ラストの叶わない望みを夢想して、石を捨てるシーンは切なさがあって良かったけれど、この記事の考察に沿って考えると、このシーンは主人公が自らの法を獲得しようとしたということの象徴であると考えることが出来る。実際、主人公は父と再会するために真っ当に稼いで家を買おうと誓っている。儚い望みであるが……。

 

とりあえず書きたいことは大体書けたので、これで他の方の感想や考察をようやく覗けるようになった。更新は不定期だけれど、また近いうちに何か書きたい。